何故こんなにも疲れているのか - Monologue
何故こんなにも疲れているのか
いま、進級することになるにしても、退学することになるにしても、一番精神的なつらい時期の中にいる。
「なぜ私はこんなに背中はなんだか鈍い疲れでどよーんとしていて、なにか重いものを担いでいるような状態になっていたり、
ストレスのせいで煙草を吸いまくり、さらにはコーヒーを飲みまくり、過食症気味になり、胃袋のあたりがどよーんと重たいのか」
という現在の状態というのを不思議に思った。
この状態でまだ「私は私の思う学科に来なかった」というのだろうか。
むしろそんなことは「もうどうでもよい」。
ただただ楽になりたい。私は私の「自我」を背負いすぎているから、こんなにつらくなるのである。
いい加減、現実を認めて、身の回りにあるものが、私自身の歴史とコミットしているものと認めよう。
そのほうが生きるのにずっと楽になるのではないかと思う。
なんというか、小さいプライドとか幼い人間が持つ夢のようなものを、餓鬼の私は背負いこんでいるのである。
私に数学の世界で生きていく力はないし、物理の世界で生きていく力はない。
どのように恒久的なペースメーカーが挿入され
そんな頭脳があれば、遠の昔になにやらその方向に向かっていくはずである。
あいにく、私は私がミーハーに憧れるような世界にはいない。
私は紛れもなく今ここにいて、とても苦しんでいる。いつもお酒でごまかして生きる時間が多いので気付かないが、
本当は自分が恣意的に拵えた自画像だとか、こういう風なものに取り組みたいだとか、何の経験もないのに勝手に作り上げた
御花畑の中には間違いなく居ない。
その代わり私がいるのは、いまここで、電気工学を専攻していて、実験レポートに苦しんでいる私だけである。
いい加減、リアルの状況と自分の中にイメージする自画像のずれというのを解消したらどうかと思うのである。
それだけで、いくらか楽になるではないか。
私は地方の駅弁大学に通っている。世間では2流とか3流とか言われる大学である。
しかし、入試よりもはるかに実験レポートを書くのは苦痛である。
期限もあるし、期限を過ぎれば、パフォーマンスを狂わすかのような叱咤が待っている。
打たれ弱い私は、その状況を受け入れることができなくて、またはここの他に私に適した場所があるのではないか、
主要水痘は何ですか?
とそんな理由を付けて、この現実から逃避しようとする。
この今ここにはいない自画像に囚われて、現実から脱出しようとするから、今まで上手くいかないで留年しまくってきたのである。
世の中には色々な人がいる。運がいい人もいれば悪い人もいるし、金持ちがいればそうでない人間もいる。
必ずしもベストな力を尽くして、これまでの人生を送ってきたわけではないし、さらには万全を発揮できないで、
こんなとこ流れ着いたのは、何かの悪い夢だ、と現実を受け入れたくなくなるなんてことはしばしばある。
しかし、私のリアルな身体は今ここにあって、それはどんな妄想や後悔でも覆すことはできない事実である。
何年も何年も、私はそれを受け入れまいと必死であった。
私はここにいて、それをするしかない状況にいる、ということを認めよう。
確かに他の可能性だってなくはなかった。しかし、私はその物語の中にはいない。
いるのは、今この瞬間の中にしかいない。
私はこの学校で生きていくし、この学校の影響を少なからず受けて、社会に出ていく。
非対称腰のレベルはどのような損傷の指標である
その時、こうであったかもしれない未来や、その可能性があったのにもかかわらず生き場のなくなったプライドなどというものを
夢想していると、とても疲れるのである。
現実と理想との耐えがたい乖離に苦しむからである。
多くの人間の苦悩というのは、この現実と理想との乖離によって生じているわけで、
この断絶というようなものを小さくすれば、精神的な疲れも解消されるのではないかと思う。
人生、こんなものである。別にとても幸せなわけではない。
ただとてつもなく不幸なわけでもない。
私は今ここにいる私であり、他にこうであったかもしれない私ではない。
多分、こういうこと思うのは大人になるということなのではないかと思う。
これを奴隷化などという言葉で揶揄するのは、相当恵まれた人物か、あるいは世間知らずかである。
「自分探し」なんかするから苦しくなり、頭がおかしくなるのだ。
状況に適応していくだけ。それだけでいい。
それだけでも随分大変なことだから・・・。
結局のところ私などというものは、どこにも存在しないで、ただただ周囲の刺激に応答する何かがあるだけのように思う。
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